カントはどんな人? 〜哲学大図鑑(ウィル・バッキンガムほか 著)より〜
イマヌエル・カント(1724〜1804年)はあまり裕福ではない職人の家庭に生まれ、全生涯をケーニヒスベルク(後にプロイセン領となったバルト海の港町)で過ごしました。彼が生まれ故郷を離れたことは一度もなかったといいます。性格は明朗で社交的な人だったようですが、生涯独身で80歳に亡くなっています。
カントはケーニヒスベルク大学で哲学・自然学・数学を学び、その後27年間、同大学で教鞭をとっていました。1792年には君主フリードリヒ・ウィルヘルム二世から教職に就くことを禁じられた経緯があります。それは非凡な見解ゆえの結果で、王が亡くなって5年後に再び、教職に復帰できたといいます。
カントの言葉:形而上学、超越論的観念論
内容を欠いた思考は盲目だ。概念を欠いた直感は空虚だ・・・。
両者の結合からのみ、認識は生じうる。
私たちの空間について語ることができるのは、人間的観点からのことだ。
人間理性は、退けることができないが、答えることもできない問いによって混乱させられる。
理性は、それ自身の計画にもとづいて生みだすものについてしか洞察をもたない。
カントの壁掛け:目にみえる物体に囚われぬよう何もない額縁を用意するのも一案
カントの壁掛けに秒針が絶え間なく震える時計がある。
アナタとワタシが経験することは、この小さな世界を通して変化するちっぽけな事象のみだ。
gomagoma は今まで、そしてこれからもずっと時間を間接的にしか経験できない。
ま〜、それでもいい。
ワタシたちの小さな家の語りには、人間的観点が必要だ。
けど、そこに理性が加わる余地はあるのか!
混乱する。めまいがする。
答えのない答えを追い求めることは不毛な世界への出発点か・・・
漆喰の壁には何を飾ろう。
時計の他に風景画? 家族写真? 動物の剥製? 表彰状? ドライフラワー・・・
どれもこれもジブンの生き様を確認する不毛なモノに化してしまう可能性がある。
思考と直感が共に手を取り合うような関係を構築するにはどうしたらいいのだろう。
gomagoma はちょっと焦る。
「このままでは直感だけで生きてしまいそうだ」・・・
どこにいってもモノだらけ。
モノ、コト、モノ、コトの多さに本当にうんざりする。
手に負えない。
せめて小さな家には最小限の慎ましさをキープしたいものだ。
今、二つの世界がある。
それは身体によって感覚できる経験世界と、それ自体においてあるがままの世界・・・
このまんまの肉体が朽ちる時まで、目にみえる物体に囚われぬよう何もない額縁を用意するのも一案か。
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