フッサールはどんな人? 〜哲学大図鑑(ウィル・バッキンガムほか 著)より〜
エドムント・フッサール(1859〜1938年)は、オーストリア帝国領であったモラヴィアに生まれました。彼の学問的キャリアは数学と天文学の研究から始まっていますが、数学の博士号をとると、専攻を哲学に変える決断を下したといいます。
1887年には結婚し、3人の子どもに恵まれ、ハレ大学の私講師になりました。また、ゲッティンゲン大学の院外教授に就任し、1916年に晴れてフライブルグ大学の哲学科正教授に任命されています。その大学の教え子の中には、マルティン・ハイデガーがいたといいます。
フッサール言葉
学問は世界に対する確実性を熱望している。
だが、科学は経験的だ。つまりそれは経験に依拠している。
経験は臆見(おっけん)と予断に囚われている。
だから経験それ自体は学問ではない。
私たちは、人間および人間的共同体にかんする合理的学問をまったく欠いている。
フッサールの布団:この世界に居ても良いと断言し、熟睡できる何かがほしい
数学のように何もかも計算可能な世界があればいいのに・・・
時々、そう考えるようになりました。
目をみはる科学の進歩が休息をとることなく、前進(=後退?)し続けている。
本当にこのスピードで構築される世界は安全なのか? 真実なのか?
わからない。
アナタとワタシのいる世界は不確実性をまとった寝室のようだ。
熟睡なんかできない。眠ってなんかはいられない。
ここは・・・覚醒とともに科学的根拠を常に求められる張り詰めた世界だ。
gomagoma は元々、数学が大好きでした。
「答えが明確な世界には、ある一定の安堵感があるからね」
いつしか、答えのない事柄の多さに驚嘆し、魅力さえ感じるようになった。
学ぶということは、世界に対する確実性を熱望していること。
でも、科学は経験的なことばかりで、想像や予断に囚われている。
やっぱり経験それ自体は学問ではないのかもしれない。
フッサールの寝室には、思考を整理するための布団が用意されているはずだ。
現代科学の有り様をどのように考えるのだろうか?
合理的と考えるのか、それとも・・・
ワタシたちが日々、経験しているものは人生では欠かせないものではあるけれど
「学問」というほどのものではないらしい。
経験にすがりたい。実績を認めてほしい。
この世界に居ても良いと断言し、熟睡できる何かがほしい。
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