デリダはどんな人? 〜哲学大図鑑(ウィル・バッキンガムほか 著)より〜
ジャック・デリダ(1930〜2004年)は、当時のフランスの植民地であったアルジェリアに生まれました。彼の両親は共にユダヤ人で、早い時期からデリダは哲学に関心を寄せていました。しかし、プロのサッカー選手になりたいという夢も捨てられなかったといいます。1951年には、パリの高等師範学校に入学し、そこで同郷のルイ・アルチュセールと親交を結びました。1986年にはアーバインのカリフォルニア大学で人文科学の教授に任命され、次第に倫理問題に収斂していきました。
文字に書かれたあらゆるテクストには、断絶や欠落、矛盾が潜んでおり、脱構築という手法は、こうした謎や袋小路に注意をはらいながらテクストを読み進める方法です。
脱構築とは、隠された逆説や矛盾をあかるみに出しつつテクストを読む方法です。
「私たちは記号を用いてのみ思考する」
「考えたり話したり書いたりするさい、私たちはいつでも自分では気づいてもわかってもいないようなありとあらゆる政治的・歴史的・倫理的問いにすでに巻き込まれているということ」をデリダは示唆しています。
デリダの手ぬぐい:難解だからという理由だけのために、難解であろうとする誘惑に屈したことはない
揺るぎない意志を表明し、汗を拭う。
周辺からは手ぬぐいが投げ放たれ、批判されるようなことがあろうとも・・・
もっと強くなりたい。
グランドに立つ。砂埃が全身を覆う。
それでも、かろうじて開眼し立ち向かうことができればいいのに。
gomagoma は灼熱のグランドを走ったことはあっても、そこに居続けたことはない。
夢は半ばで断念することもあったように記憶する。
もしも当時、デリダの手ぬぐいがあったのなら、別ルートの試合に挑むことができたかもしれない。
アナタにもワタシにも、文字にはできない喜びと同時に断念の記録が残されてはいないだろうか?
それでもいい。
それでも文字に書かれたあらゆるテクストには、断絶や欠落、矛盾という決定打はないようだ。
「力を込めすぎることなく、考えたり話したり書いたりする中で、何かを見つけてゆけばよい」
そう言って欲しい。多分そう言っているのだろう。
gomagoma はすでに誕生し、生きている。
それ自体が難解な道筋なのだから今更おどろきビビることなんてない。
小さな家も完成した。居場所らしきところも見つかりそうだ。
あとは、数多くのテクストとアイテムの中から何を選別し獲得するかが大事なミッションになっている。
脱構築・・・自由であることの喜びと同時に、果てしない選択の余地に、この世の難解さを遅ればせながら知る。
デリダの手ぬぐいは、これから汗する能動的な動きに伴走してくれるお守りになる。
この手ぬぐいにはロゴが印刷されているようだ。
「ただ難解だからという理由だけのために、難解であろうとする誘惑に屈したことはない」
by Derrida
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