母の終の棲家はここだったのか・・・
どれくらいもつのだろうか?
ひな祭りまで共に過ごすことはできるのだろうか?
酸素吸入をしている母の血圧が低下してきている。老人ホームの看護師の方からは尿量も減少しているとの経過報告を受けた。
「もう、長くはない」ということを自覚しなくてはならない。
私は弟夫婦に「面会に来てほしい」と連絡をした。
そして私は一旦、夫と共に帰宅し、1階リビングに布団を出し短時間の眠りについていた。
夜間、携帯電話が鳴った。
すると老人ホームの職員の方から「息をしておられません、すぐにお越しください」との連絡を受けた。と同時に弟家族にもその旨を伝え、母の棲家へと直行した。
まだ暖かい、からだと魂は今どこを彷徨っているのか・・・
医学的には母はもう亡くなっている。
あとは医師の診断を受けるのみとなっていることが理解できる。
「ひとりで逝ったんだな〜」とじわじわと現実が接近してくる。駆けつけたのは深夜、前日の面会時には私の言葉に反応しながら、最期の力を捻出して返事をしてくれていたのだと思い返す。
覚悟があったのだろう。
ひとりで迎える不安と恐怖を一気に抱え込んでしまったのだろう。
私はこの日が来ることを想定し、折りたたみのキャンプ用ベッドを購入していた。けれどその逸品は本番を迎えることなく自宅の屋根裏部屋送りとなってしまった。
私は18歳から看護の勉強をさせていただき、身体的なケアを学んできたのに母の全身を観察し、いたわるような行動につながったことは一度もなかった。全てはプロの皆さんの介護と看護と医療に支えられていたということになる。
母は私に排泄などの、生きていくために必要不可欠なケアを求めることはなく、ずっと回避しながら10年間を生きてきた。「これは私の専門だから気にしないで・・・」と言っても、その態度は変わることなく、変化することなく、超えることなく・・・だった。
これが「娘である私を育てた」という誇りであったのかもしれない。
母はいつまでも母親でありたかったのだろう・・・
今、魂はどこへ?
亡くなって3週間は現実的な事柄ばかりで・・・
泣いてばかりはいられない、現実が押し寄せ、それが心を保つ力になっている。
家族葬を執り行い、料金の支払いや市役所、年金事務所、銀行、生命保険会社・・・など複数の場所で書類に記入しながら、母の居室の整理などを行った。
手続きに関しては平日にフットワークよく動ける私がメインで処理して回ったけれど、居室の撤収に関しては休日を利用しながら一気に片付けを行った。本来であれば、もっと時間をかけて実施するところでしょうが、有料老人ホームの入居希望者がおられることを想像しながら、葬儀の1週間後には片付けが完了する流れとなった。
悲しんでばかりはいられない現実こそが、これからを生きる原動力にもなっている。
少しせっかちな私は、現職時代のペースを一気に取り戻し事務処理を数日で済ませることができてしまった。
あとは各施設での動きに合わせて対応すれば良い感じになっている。
我ながら現実主義的な行動パターンに驚かされる。これはもしかしたら悲しみを最小限にしたいという防衛機制かもしれないので程々にしたい・・・と思っている。
亡くなった人には聞きたくても聞けないことがある
母は大事にしていたジュエリーを全て失っていたことが発覚した。
死が間近に迫った段階では、本人も私たち家族も指輪やネックレスの話題など上がらないのが当然だと思う。
これはミステリーだけど、「母が橋を渡るために持っていたかったものだろう」と思うと納得がいく。
私は早々に「生前整理用のエンディングノート」を購入し、書けるところから記入を始めている。
まだアラ還で、有益な財産を持たない私が書ける案件などかなり少ないということを再認識する。
こんなシンプルで良いのでしょうか?
毎夜、父と母が夢の中に登場する今の時期に次世代が楽に過ごせるよう、我が人生の整理と断捨離を継続しようではないか、といきがっている。
亡くなった後でも、「これを見れば、大体わかる」エンディンノートを創ってみたいと考える。
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