Essay のんびり気の向くままに:「もう、いいかな〜」と欲望の壁がだんだんとみえてきました

元々の私はどちらかというと新しいものが好きなタイプだと思います。それでも次から次に登場する技術にはとてもついていけない状況なのです。本当にお手上げ。
この頃は昭和レトロが巷で流行しているけれど昭和生まれの私にとっては「そんなのレトロでもなんでもないのに・・・」という感覚です。昭和の特集をくんだ雑誌なども購入し確認してみました。今更むかしを懐かしんでも仕方ないと思いつつ、これからの時代を生き抜くヒントはないか探索中です。

現役フルタイムの仕事を辞してから数年が経ちます。時々、夢の中で元職場のお仕事をしていることがあります。本当は退職などしたくなかったのかも知れませんが、失ったことに関しては後悔していません。

自分自身に力が感じられない時、いろんなことをして、いろんなものを購入し、いろんなものを身につけようとします。今は重ね重ね収集した事案や事物を整理する作業にエネルギーを注いでいるところです。
ほしいものは年々少なくなってきました。生活するために必要な食料と水が確保され、厳選された着心地の良い衣服があればとてもありがたい。生きているというよりも生かされているという感覚の方が優った生活。まさかこんな日が来ようとは・・・

昨日は玄関横に1本だけ土に接した植え方をしていた「ベニカナメモチ」を伐採しました。ここ数年は小まめに剪定をして小ぶりな形状でしたが、根っこを確認すると太い塊となっていました。とても引っこ抜くことはできないと考えてノコギリでカットするということになりました。これは一人作業です。そして「今までありがとう」と感謝しお別れをしました。この木は過去に毛虫が発生し、1週間ほど発疹と痒みで辛い状況になった経験があります。当時は何か流行中の感染症にでもかかったのかと心配したものですが、時間の経過とともに症状は消失していきました。

自分自身の老後を真剣に考えるようになったのは、父や母の世代の老後をみてきたからでしょう。彼らは戦後の混乱から高度経済成長期を経て高齢者となりました。常に進歩すること、多くのものを入手すること、たくさんのお金を儲けること、大きな家に住まいすること・・・など途轍もない欲望の波と共に人生を過ごしていました。モノを所有する感覚には個人差があるものの、最新の家電などへの憧れはかなりあったと思います。

アラカンとなり「もう、いいかな〜」と欲望の壁がだんだんとみえてきました。日常生活では欲しいものよりも要らないものの方が目についてきました。いずれ足腰が弱くなり、認知的機能も低下しそれでも自分の力で生きていける方法はないものかと考えます。
自分自身の責任で断念できる「コト」との別れ、「モノ」との訣別・決着を模索しています。私は現在一人暮らしではないので家人の所有物にはいっさい手が出せませんが、今までまとってしまった自己愛の塊だけはなんとかしたいと考えています。

それと50数年間、守られ育まれてきた母性的な世界とも距離を持つ必要性を感じてもいます。寸断する・断絶する・切断する・断念する・・・といった痛みを感じる作業に少しずつシフトしてきているようにも感じます。
母なるもの、土の香り、無限を感じさせる有限の世界などは自身の手で線引きをする。アラカンとは別れと共に、新たな自分との出会いの時期ともいえるでしょう。

今の私が本来の私ということなのかも知れません。

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