心理学人名事典:アドラー[Alfred Adler ; 1870〜1937]

Alfred Adler
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アルフレッド・アドラーはどんな人物?

1870年2月7日、オーストラリアのウィーンの郊外で生まれました。
父親は穀物商を営むユダヤ人で、比較的裕福な暮らしをしていたということです。
きょうだいは6人で、彼は第2子として生まれました。しかし4歳の時に弟が亡くなり、彼自身もくる病に罹患し、医師になることを決意したといいます。
1895年にはウィーン大学の医学部を卒業し、内科・小児科の医師をしていた時期がありました。また、アドラーは学生時代からフロイトの講義を聴き「夢判断」に興味を持ったといいます。1902年以降はフロイト家で開かれた「水曜会」にも参加するようになり、初期メンバーとして活動し始めました。しかし、性的な外傷体験が神経症になるという学説(エディプス・コンプレックス)には懐疑的で、フロイトのもとから離れ「自由精神分析家グループ」を作り「個人心理学(Individual Psychology)」を確立する道を選びました。

アドラーの業績とは?

アドラーは、第一次世界大戦の時に軍医として従軍したことがあります。その経験がきっかけで「共同体感情」の概念を生み出すことになりました。戦後は教育的実践に力を注ぎ、1925年にはウィーン教育研究所員になり、1931年には個人心理学のための実験学校(高校)を創設しました。

ドイツ、ハンガリー、チェコ、デンマーク、イギリス、アメリカなどに講演に出向いて、教育家・社会運動家として人々に大きな感銘を与えました。また、コロンビア大学の客員教授やロングアイランド医科大学の客員教授の地位にもついています。

1930年代にはナチスが政権をとり、活動拠点をアメリカに移しました。
晩年は教育、診療、講演などによって多忙な生活を送ったといいます。

1937年5月28日、スコットランドへの講演旅行の際にアバディーン市の路上で心臓発作のため客死しました。享年67歳であったといいます。

アドラーの理論とは?

機械論的・原因論的モデルから、人間学的・目的論的モデルに向かって変遷していきました

  • フロイトとの共同研究では、器官劣等性・男性的抗議・攻撃性衝動などについて研究しました。
  • フロイト的な要素論的心理学から脱却して全体論的心理学理論を構築しました。
  • ニーチェから大きな影響を受けて「人生は基本的には無意味なのであるが、共同体への貢献に向かって行動することによって自ら意味を作り出していく」と考えました。
    • 共同体感覚を決断し選び取った時、人間ははじめて意味ある人生を送ることができる・・・とうことです。
  • アドラーは一貫して社会改革に関心があり、「マルクス主義の心理学」という論文も執筆しています。

フロイト的な深層心理学・力動心理学ではなく、人間学的心理学の色彩を色濃く帯びたものに変化していきました。
この流れは結果、第二次世界大戦後の新しい心理学の潮流を先取りするものになりました。

彼はロシア革命の現実に失望し、政治的な改革を通して救済する道を断念し「育児と教育を通じて、個人を改革する」ことに情熱を注いでいきました。

文 献

福島 章 編(1996)精神分析の知 88, 新書館.
氏原 寛・山中 康裕 他 編(1999)カウンセリング辞典, ミネルヴァ書房.
中島 義明・子安 増生 他 編(1999)心理学辞典, 有斐閣.
氏原 寛・山中 康裕 他 編(2004)心理臨床大事典 改訂版, 培風館.
下山 晴彦 編(2014)誠信 心理学辞典 [ 新版 ], 誠信書房.

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